鎮魂の祈り

「3.11」。7年前のこの日、ぼくは大阪の天王寺にいた。いまの職場に就職して間もない営業からの帰りしな、便意を催したくなり天王寺にあるパチンコ屋のトイレに駆け込んだのである。ことを済ませ、トイレットペーパーに手を伸ばそうとしたとき、目の前が一瞬歪んだ。ドアの壁が左右に揺れている感覚に襲われ、慌てて両手で壁を押さえた。真面目に昨夜の酒がまだ残っているのかと心配したが、左右に揺れる感覚は数分で静まった。面妖な出来事に首を傾げてその場を離れて職場に戻ると、同僚たちがざわつきながらテレビに釘付けになっていた。ぼくは肩越しからテレビに目を向けた瞬間、目の前に映し出された衝撃的で同じ日本とは思えない壊滅した東北地方の中継に言葉を失った。さっき体験した「揺れ」が大阪にまで届いていたのか。ぼくは息を飲みながら、ひっきりなしにテロップが錯乱する映像を傍観するほかなかった。
東日本大震災から7年が過ぎた。今年もテレビなど各メディアで取り上げて、全国のいたるところで震災で亡くなられた人たちに哀悼の意を捧げた。
ぼくは中学生のときに阪神淡路大震災を経験した。震源地から離れた大阪の自宅にいたが、この世の終わりと覚悟を決めた朝から数十年経ったが、あのときの揺れと恐怖心はいまだに身体に沁みこんでいる。
比較するものではないが、東日本大震災の被害は未曽有なもので、平日の白昼ということも追い打ちだった。ぼくは震災から3年目のときに、仕事で初めて東北に足を踏み入れた。宮城県の女川町に降り立ったぼくらに、どうしようもない現実が突き刺さった。有数の漁港の町でもあるこの地域に数年前の面影はまったくなかった。ぼくらは生温かい潮風を嗅ぎながら町を巡り、甚大な被害をもたらした爪痕を確かめるというよりも、皆心に留めることを優先していたはずだ。救いだったのは東北の地元の人たちが明るく接してくれたことだ。もちろん内心と行動は違うかも知れない。それでもこうやって他府県から来る人間に対して、隔たりなく気長に話しかけてくれることに、被害者の方々の心の大きさになんだかこちらが恐縮してしまった。
3.11にしろ1.17にしろ、大きく言えば、各地の戦争にしろ、日航ジャンボ機墜落にしろ、サリン事件にしろ、メディアは風化を防ぐために定期的に報道したり発信する場を設けなくてはならない。被害者は生きている限り被害者であり、終焉などないのだ。ぼくは自明のこととして、変に深刻ぶらず胸にしまってこれからも生きていこうと思う。