歌うたいの生き方

歌うたいがいる。地元の友人「キクリン」である。
彼はこの夏にかけて精力的に趣味(本業にする気なのか)の音楽活動を関西圏を中心に敢行ている。キクリンの音楽性は以前にも触れたが、「音」を楽しむという意味では最も音楽を体現しているかもしれない。言葉を、ソウルを、身体全体で表現し、ギターから奏でられる旋律にすべてを注ぎ込む。あまりに自分に陶酔し目を覆いたくなるボーカルもいるが、キクリンに関してはその必要はない。そもそも、気軽にビール片手に視界に入るこむ程度の音楽であり、本来、音楽の本質はそういうものではないか。彼も納得するにちがいない。彼はこれからマイクロフォンを通じて何を伝達してくれるのだろう。同級生としてまた数少ない独身貴族として、今後も頑張ってもらいたいものである。
そんな彼に地元の駅前にある小さな音楽酒場に連れていってもらった。毎日利用しているのに店が奥まったテナントに挟まれているので知る余地もなかったが、狭い店内には手作り感いっぱいのステージがあり、ドラムやキーボードもちゃんと用意されてあった。カウンターと何席かの簡易なテーブルしかなく、要するに常連客や仲間内で好き勝手にセッションして歌う場所なんであろう。往々にこういう店の連中とは肌が合わないものなのだが、マスターはじめ客層は悪くなく、調子に乗って何曲かキクリンの演奏に合わせて披露してしまった。やはりオーディエンスがいるのといないのでは違うものだ。恥ずかしながら気持ちよくなって、おもわずこんな舞台を毎回経験しているキクリンに思わず嫉妬してしまった。とどのつまり、歌うたいにしろ、作家にしろ、俳優にしろ、誰かに提供して何ぼなのである。ぼくはその夜、ビールといっしょに己の慢心を飲み干し、ブルースに身を委ねたのだった。

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一号生筆頭

「夏であ~る!!」(江田島塾長風に)。
今年の夏は真夏日という言葉では生ぬるい、もはや殺人的猛暑、酷暑である。日本列島がサウナに閉じ込められたかのごとく、四六時中、ひたすらに暑い。外に出ることさえ何かの罰ゲームを執行されているのではないかと、メガネのレンズに止めどなく落ちてくる汗に辟易している。
そういうわけで、アラフォーの小生は涼しい場所を探しに、奈良県にある「みたらい渓谷」に足を運んだ。
みたらい渓谷は奈良県吉野郡天川村北角にあり、関西でも屈指の美しい渓谷である。大小さまざまな滝にエメラルドグリーンに輝く淵や巨岩が連なり、川の底まで透き通った名水が自然の神秘さと感動を提供してくれる。近くには温泉もあるらしく、秘湯を満喫するのも良し、川遊びにキャンプも良し、ファミリーには打ってつけで、夏は新緑に秋は紅葉にと四季折々の景観を堪能することが可能だ。
我々おっさん2人は大阪は狭山にある「男塾」のラーメンで腹ごしらえし、いざ勇んで渓谷に向かったのだが、まさかのみたらい渓谷の入り口にたどり着くまでにギブアップするという、お粗末な結末になってしまった。
山道付近ですでに自然の恵みを感じていた我々は「みたらい渓谷までいかなくてもいいんじゃね?」という本末転倒な結果を受け入れ、せせらぎとおいしい空気だけで満足し次回に持ち越しということで帰結した。
それにしても涼しかった。ここはオススメである(麓だけでも充分ですよ)。

久しぶりに高知に行ってきた。なんのことはない。高知も暑い。
今回は祖母の介護であまり時間はなかったが、何十年振りかに高知城に足を運び、高知名物「アイスクリン」を食べながら、よさこい祭りの練習に励む子供たちを眺めるのも、また、夏の思い出のひとつになった。

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マサさん、永遠に

7月14日、マサ斎藤氏が亡くなられた。このブログのアイコンや個人的な画像にも使用させていただいてるマサ斎藤さんが鬼籍に入られた。
2000年にパーキンソン病を発症し、これまで長い闘病生活と文字通り戦っていたが、容体が急変しついに帰らぬ人となった。
覚悟はしていた。知人にも同じパーキンソン病を患い闘病生活を余儀なくされている方がいるが、症状を抑える薬はあるみたいだが、決定的な原因がつかめないので手術は施せないらしく、治療薬でただ進行を遅らせるだけしか現状はないらしい。
マサ斎藤は間違いなくプロレスラーだった。レスリングでオリンピックにも出場し鳴り物入りで当時の日本プロレスに入門。その後、日本プロレス崩壊のいざこざに巻き込まれたが、単独でアメリカに渡米。数々のタイトルを獲得し、アメリカで長期に渡り最も成功した日本人レスラーとなった。近年ではアメリカ外国人ほか海外レスラーの世話役となり、信頼関係を築き上げ日本マット界に名レスラーを送り込んでくれた。
レスラーとしてはあの身体を見れば一目瞭然だろう。ウエイトトレーニングで鍛え上げた分厚い胸板や太い腕、そしてあのつぶらな瞳のまわりを覆う男らしい剛毛な髭がより一層、かっこいい男、頼りがいのある男を引き立てている。ディアドロップの黒いサングラスがこれほど似合う男をぼくは知らない。
容姿だけではない。レスリングも泥臭く、大技から小技までプレースタイルはまさにストロングスタイルそのもので、独特のレッグロックから監獄固めに移行する瞬間なんかはゾクゾクとする質だ。
また引退後は解説者として、名言、迷言を連発してくれた。あの風貌でカルピスが一番ウマイと豪語するお茶目さと、どんな人にでも決して蔑んだり見下したりしない態度に本当の男らしさを見た気がする。
病気をしてからは各メディアでも取り上げられ、その闘病生活の中で必死にリハビリに励むマサ斎藤の鬼気迫る姿があった。リハビリの中、仲間らに助けられながらリングに上ったときは思わず目頭が熱くなった。
それにしてもリングとは一体なんなんだろうか。四角いジャングルで繰り広げられ死闘をぼくらは見て、それぞれが何かを感じ取ってそれを共有する。言葉ではなくラリアットで相手に伝達し、身体だけですべてを表現しなくてはならない。そういう意味でマサ斎藤は「Go for broke」(当たって砕けろ)の信条通り、プロレスラーを最後まで貫き戦い続けたまま生涯を終えた。

今まで本当にお疲れさまでした。天国で大好きなカルピスを片手に、思う存分あの捻り式バックドロップでみんなを沸かせてください。合掌。

居酒屋紹介②

居酒屋紹介の2回目は大阪の天王寺にある「中や」を紹介しようと思う。場所はというと天王寺駅北口を出たらすぐそこにある。そう説明するとこの界隈を庭にしている人なら、そんな店あったかなと首を傾げる人が多いのではないだろうか。一見、通りに面してパチンコ屋や焼肉屋、王将に吉野家などが並び人通りも多く、すぐに見つけやすいと思われやすいが、ちょうど表通りと細い裏通りに別れている立地にひっそりと佇んでいるので、仲間と会話をしながら歩いていると気づかぬうちに通り過ぎているのが常である。
その理由として(特に若者)、店構え自体が「昭和」であり、暖簾が油や埃で力なくなびいている感じが、単なる飲み屋以上の「何か」をよくも悪くも期待しないではいられない。若いカップルが初めて訪れる場所ではないのは確かだ。しかし、そこを勇気を出して暖簾をくぐっていただきたい。飛び込んでくるのはセピア色の古きよき昭和の世界である。一階はカウンターだけの木目のテーブルに10人も座れば肩を寄せあい、席を確保するような居酒屋の王道ともいうべきどこか懐かしい雰囲気に心落ち着かせられる。2階は団体客用の座敷が用意されているが、その上る階段が角度といい狭さといい、過去にどれだけの酔っ払いが転げ落ちては儚い夢を見てきたのだろうと思うほどである。
店内もいい感じで、手書きのお品書きや古びたテレビに止まったままの時計などしっかりと味があり、流れてくる有線の選曲もまた人生の滋味をたっぷりと感じさせてくれる。ここまで書いたが、それだけだとただのノスタルジーな店である。ぼくが通う理由はもうひとつ。料理の旨さが飛びぬけているからだ。
実は店を司る大将とは実家も近くで、ここ数年は釣り仲間としてお世話になりっぱなしなのだが、東京の有名店で修業した腕前は本物で、とくに魚料理に関しては文句のつけどころがない。味付けから飾りまで店内に似つかわしくないほどきれいで絶品である。どんな魚や珍魚でも見事にさばいてみせる腕前と料理のセンスに、カウンターからすぐ覗き込める常連客らはいつも唸らさせられる。
そして以前の居酒屋紹介でもポイントとして伝えた人柄も嫌みがない。空手で鍛えた厚い胸板とメガネの奥の鋭い眼光からその風貌は強面だが、会話をすると昆布のように優しさがにじめ出ているのがすぐにわかるだろう。「都昆布」と同じく噛めば噛むほどその人のいい人柄に心を許し、この店に通うことになるのは時間の問題だ。
是非、大阪の天王寺に訪れたら足を運んでくださいませませ。

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震災の記憶

大阪北部地震の発生から1週間が経った。京都府南部から大阪府北部を中心に最大震度6弱を記録した大地震。その時間、ぼくは朝の通勤途中の電車の中だった。満員電車の中で一斉に携帯電話から受信速報の通知音が鳴りだし、乗客らは携帯画面を食い入るように見つめていた。異様な光景だ。すぐに走行中の列車からアナウンスが入り、幸いいちばん近い駅に緊急停車することができた。情報では震度6と表示されていたが、ぼくの住処は大阪南部なので、その瞬間はまったくといって揺れを感じなかった。ぼくらは駅に下され、停車駅のアナウンスに耳を傾け緊迫した中で事態を静観するしかなかった。駅の周りには人で溢れかえり、勤務先や知り合いの安否の確認など電話は通じないので、SNSなどを駆使して現況を報告している。結局その日は、電車が動き出したのは午後を回ってからで、会社になんとか到着したものの、古びたビルの5階にある事務所は資料が散乱し後片付けだけしてその日は帰宅した。
関西在住の方なら今回の震災で思い出すのは、やはり阪神大震災ではないだろうか。当時は中学生だったか。明け方、夢の中から突如、現実に引き戻されたとてつもない揺れに、親父が飛び起きてやってきた。ぼくは何もわからず揺れがおさまるまで布団にくるまっていた記憶がある。あのときも中心部から離れていたので直接何か被害を被ったわけではないが、兵庫県全域含め震源地の淡路島は想像を絶する光景だった。復興できるまでの数年間、マインドの支えは人それぞれだが、ぼくはプロ野球イチローが活躍していたオリックスブルーウェーブだったように思う。
あの体験での教訓として思うことは、予期せぬことが起こると人は何も反応できないということだ。いかに訓練や備えが大切かということであり、普段から心がけて食料などの備蓄をしているか。あらためて見直さなければならない。これは天災だけではなく、あるスポーツライターの言葉だが、仕事やスポーツの世界においても同じで徹底的に準備をきっちりしているものが勝ち上がっていくという。一理あるなと感心したものだが、これから余震や二次災害が予測される中で、南海トラフ地震の件もある。もう他人事ではない。安心は自分で買わなくてはいけない。
今回、被害に遭われた方々に、心よりお見舞い申し上げます。一日も早い復興を祈って。

燃えよドラゴンズ!

最近、出張で名古屋に訪れる機会が多い。いまでこそ名古屋という場所や土地柄がわかるようになったが、そもそも「愛知県」とは呼ばず、「名古屋に行ってくる」で通ずる不文律が成立すること自体、ぼくが不可解な場所にさらしめていた。日本列島の真ん中に位置し東西の中心的場所にありながら、どうも文化や経済の屋台骨としてうまく機能していないきらいがある。ビジネスでよく愛知県民と京都府民の近似的な部分が話題に上がる。それは否定的な意見で、どちらの県民も会話の中に感じる表向きとは違うどこか腹を見せない態度がどうも苦手だというのだ。ぼくもその意見には肯く。悪気がないのはよくわかる。ただ、腹を見せて「どうや」という多くの関西人のビジネスからしてみれば、そういう気取った態度が鼻持ちならないのだろう。もしかする東京の一極化がこうまで進むと、名古屋に住んでいる人たちには大阪のようにそこまで張り合う必要性がないと感じているかもしれない。実際、名古屋には天下のトヨタがあり、名古屋駅前の再開発にしろ自動車分野や建設業界ほか、しばらくは好調を維持するに違いない。東西の中立的なポジションで独自の文化を今後も続けていくだろう。
ぼくは決して名古屋が嫌いではない(念のため)。その証拠にぼくは食べることを好むので、名古屋に訪れたときには名物を味わうことが楽しみだ。「きしめん」「手羽先」「ういろう」「ひつまぶし」「味噌カツ」「小倉トースト」。名古屋にはメディアで取り上げられた名店が数多く存在する。先日も久しぶりに立ち食いそば(きしめん)の「住よし」の暖簾をくぐった。ご存知の通り、新幹線名古屋駅ホームに構える、立ち食いそば信者の文字通り駆け込み寺である。新幹線から降りてこのきしめんがまず初めに名古屋に来たことを実感させ、時間にタイトなサラリーマンたちのお腹を満たし鋭気を養ってくれる。恐ろしいほど無愛想な親父が目を疑うほど素早い手際できしめんをカウンターに並べると、どんぶりからの湯気とそばつゆの香りがなんともいえない。名古屋を知らない方や否定的なご意見がある方は、改札をくぐる前に一度味わっていただきたい一品である。

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麻雀界の巨星、墜ちる

小島武夫」さんが亡くなられた。82歳だった。
麻雀に陶酔している方や少しでも牌を握ったことがある方なら、その名を知らない者はいないだろう。
「ミスター麻雀」の異名を持ち、数々の伝説を残してきたプロ雀士である。日本プロ麻雀連盟の初代会長であり最高顧問として、戦後からの日本の麻雀界の礎を築いてきたといっても過言ではない。自らも当時深夜の人気番組「11PM」に出演し、「麻雀」という世間ではギャンブル色が先行していたイメージを払拭し、日本の麻雀人口がどれほどかはわかりかねるが、少なくとも市民権を得るようになったのは小島武夫のおかげであろう。ぼくにとって「小島武夫」「阿佐田哲也」「桜井章一」の御三家は、その生き方も含めて男として痺れるレジェンドとして今もリスペクトしている。
小島武夫の魅力は何と言ってもその「カリスマ性」である。勝負はもちろんのこと「魅せて勝つ」ことを信条に、卓を囲む面子やテレビの視聴者に対して、華やかに、鮮やかに、そしてプロの誇りを背に牌を切る。なので、試合によっては一度もあがることなくオーラスを迎えたり、ハコテンになることもしばしばある(麻雀用語についてはご了承ください)。ただ、どの一局もそれは小島武夫であってぶれることなく意固地に手役を狙いにいく。おそらく、現代麻雀においてその戦法は「古い」とか「割が合わない」といった理由で敬遠される打ち方なのだが、ぼくはその打筋にどこか共感する部分があった。どの試合も勝とうが負けようが小島武夫であって、それ以上も以下もない。そういう人間が少なくなってきている。
晩年の小島武夫は、テレビやアーケードゲームなどメディアや媒体を問わず、80歳を超えても精力的に麻雀牌を握り、おそらく日本でいちばん有名なプロ雀士に違いなかった。
雀荘をたびたび倒産させ借金王となったり、2人の女性との間に子供3人を授かるなど、まさに八方破れな人生を送り好き勝手に生きた代表格である。ときに辛口に、ときに愛情ある含蓄を、出身でもある博多弁で小島節を愛嬌のある笑顔とともに振り撒いていた。全世代が何かしら影響を受けたはずで、当然、我が道を行く男なので嫌う人や批判する人もぼくのまわりにもたくさんいる。異端児特有の感性や相手を非難する解説など、受け入れられないのは仕方がない。それでも麻雀を打つ者は小島武夫の所作や発言にいちいち反応し、酒の肴にする。要するにスターなのである。その極めつけは、動画でも配信されているが、テレビ対局での伝説の役満九連宝燈」であろう。最後に「九萬」を引き、牌を倒すまでの一連の所作が見事というほかない。知らないうちにぼくらは目を奪われ、勝負の流れを追っている。小島武夫たる人間が麻雀という盤上で繰り広げられる、ある種人生ゲームのギャンブルに君臨してきた理由が垣間見ることができる。
小島武夫に纏わる出版物や過去の映像などありたいことにたくさんある。故人を偲び、この機会にその華麗なる雀風や生き方をあらためて目に留めようと思う。
「先生、お疲れさまでした」。合掌。