「あきらめたらそこで試合終了ですよ」

日本のバスケットボール界は、フロント問題や幾度の変革、またプロスポーツ化によって対立や分断、統合、水面下から表だってまでさまざまな問題をここ数十年抱えてきた。過去のいざこざが、日本のバスケットボールの競技自体のレベルに反映したことも否めず、バスケットボールを愛する一人として、今後のあり方、協会の手腕に注目をしている。
そんな中、昨年の秋に新たな男子プロリーグが発足した。その名も「Bリーグ」。発足の経緯や目的などの詳細は同HPを参照していただきたい。先日にはB1リーグのシーズンが終了し「栃木ブレックス」が初代王者に輝いた。
栃木ブレックスには田臥勇太という選手が在籍している。バスケットに詳しくない一般の方も彼の名前をご存知かもしれない。名門能代工業時代には主要タイトルを総なめにし、留学や日本で功績を挙げ日本人初のNBAプレイヤーにもなった。テレビや雑誌で取り上げられ、一時期、田臥が日本のバスケット界を牽引していた。高校時代、はじめて田臥のプレーを生で見た衝撃と現在36歳となった田臥が重なり、ぼくは新たな日本のプロリーグの頂点で活躍している彼の姿に感慨深いものがあった。
そんなB1、B2リーグのプロリーグの下に「B3」というリーグが存在する。全9グラブが加盟し、レギュラーシーズンを戦い抜きB2リーグとの入れ替え戦にチャレンジする図式で、この辺は日本サッカー協会と組織的に近いかもしれない。そのB3チームの中に、「東京サンレーヴス」というチームがある。東京の調布、多摩地区を中心に活動するこのチームのヘッドコーチ、指揮官の名は「楠本和生」。そう、ぼくの高校時代の恩師であり、部活の顧問であった「くっさん」である。敢えてここでは親しみとリスペクトを込めて「くっさん」として表記して語ることをお許し願いたい。
くっさんについて述べることは、こっぱ恥ずかしく、また厄介で、思い出がありすぎて困るのだが、殊に高校から大学、社会人前半に共有した時間がそのままぼくの人間形成に大きく影響を与えた人物であるのは間違いない。はじめて出会ってもう20年が経った。あのときのくっさんが、今のぼくより若かったというから、尚更月日の早さを実感する。
高校時代、ぼくは大阪でも評判の悪い男子校に入学したが、あのときくっさんと出会わなかったら確実に非行に走り、ドロップアウトしていただろう。金魚の糞のようにバスケット部のマネージャーとして常に楠本和生という男の側にいて共に行動し、ある時間を共有できたことは本当に貴重で財産となった。
一言で形容するならば、くっさんは金太郎飴であり、どこを切っても、どこを叩いても同じくっさんであるということだ。そしてバスケットボールというスポーツをこれ程までに熟知し、情熱を傾ける人間をぼくは知らない。あまりの熱量にこちらがむせびるぐらいだ。コーチとして190センチを越える体躯で全身で選手に伝える姿は頼もしく、不思議と側にいて安心感を与えてくれた。また特筆すべきは交遊関係で、バスケットボールの関係者ならすべて知り合いではないかと疑うほど幅広い。それは信頼の裏付けでもあり、くっさんと出会うとわかるがその魅力に皆翻弄されるのだろう。そういった実績や能力からオファーがあって、現在B3のヘッドコーチに就任したことは必定で、戦略やコーチングに定評があり選手の能力を引き出すことに長けているくっさんを東京サンレーヴスが迎えたことは大正解だ。
くっさん自身プライベートでは苦労し、どん底を味わった時期もあるそうだ。また我が強いあまり、他人に誤解や迷惑をかけることもあって、トラブルも多かっただろう。媚びない故、妥協しない故、失敗することも安易に想像がつく。ぼくも否定はしない。正直一人の大人として首を傾げることもある。ただ、そういった己の弱い部分や情けない部分を包み隠さず見せる姿を、ましてや教え子にさらけ出せるだろうか。一見、社交的で明るく健康的に思われるかもしれないが、本来、恐ろしく人見知りで、ネガティブであり、また他人に気を使いながら生きているのではないか。そしてぼくらが想像している以上に、寂しがり屋で人の温もりや愛情を必要としているように思えてならない。偉そうなことを述べてしまい申し訳ない。ただ、東京で一人暮らしをしながら、大好きなバスケットボールに携わり、50を過ぎても夢を持ち続けている我らがくっさんを誇りに思い、あと3年となった東京オリンピックでは日本のバスケットボールチームにくっさんが関わっていることを切に願っている。ぼくら教え子たちも先生に負けじと、それぞれ違うフィールドで活躍していきたいものだ。
先日、半年ぶりに先生と酒を交わした。先生御用達の大阪の上本町の地下街で、思い出話に花が咲き、あの頃と同じように頭をひっぱたかれるのも、この歳になっては新鮮でもあり痛快である。
皆さま。是非、くっさんこと、楠本和生と東京サンレーヴスをご贔屓に。

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スパルタンXが聴こえない

今年も6月13日を迎えた。この日はろくでもない友人の誕生日とは別に、ぼくにとっては殊に忘れられない日でもある。そう、プロレスラー、三沢光晴の命日である。
三沢が亡くなって今年で早8年を迎えた。忘れもしない2009年の6月14日の早朝。当時、東京で古びたアパートで暮らしていたぼくは、朝から二日酔いで酔いつぶれていた。そんなまどろみの中、突如携帯電話が鳴った。頭痛に耐えながらかろうじて液晶画面に目をやると、上京して初めて勤務したときにお世話になったアルバイトの先輩からだった。
「はい・・・。もしもし」「・・・・」。「もしもーし。田村さん?」「かばちゃん・・・。今朝のニュース見た?」「なんかあったんですか?」「三沢が・・・死んだ。」「えっ!?」
はじめ何を言っているのかわからなっかった。半分寝ぼけていたが、かろうじて意識は残っていた。電話の彼とはプロレス仲間で、陽が昇るまでプロレス討論会を二人だけで繰り広げたほど、熱い男でありプロレスを心から尊敬し情熱を傾けていた。そんな彼が朝から悪い冗談を言うはずがない。ぼくは完全に酔いが覚め、言われるがままにテレビをつけた。
三沢光晴選手が試合のあとに死亡しました」。ぼくはアナウンサーの口調や厳かな表情、試合後の三沢の経過や状況、死因など信じがたい映像と情報が耳には入ってくるが、気持ちはすでにそこになかった。
「嘘だろ・・・。あの受け身の天才がなぜ?」。しばらく放心状態でその場を動けなかった。そしてその日から仕事もプライベートも手につかず、ショックのあまり現実で起こっていることがすべて虚構に思え、あきらかに覇気を失っていった。
ぼくをプロレスの世界に引きずりこんでくれた選手が三沢光晴だった。往年のジャンボ鶴田タイガーマスクを脱ぎ捨て、三沢光晴として挑んでいった試合。若林アナ、竹内宏介氏の解説陣もさることながら、試合の展開からラストまですべてが完璧で、あの試合を超えたプロレスをぼくは知らない。
三沢が亡くなって1ヶ月が経とうとしていた。ぼくはあい変わらす鋭気を失い、日常生活でも身が入らない状態が続いていた。そんなとき、「三沢光晴選手の献花式」がディファ有明で執り行われることになった。ぼくはこの日を待っていた。何か三沢のいちファンとして、声をかけてあげたかった。一般人でも参列できることもあり、先輩にも声をかけたが、どうしても都合がつかないとのことで先輩の分も含めてひとりで会場に向かった。
最寄り駅に着くなり、ぼくはその光景に驚き内心「そうだよな。間違いないよ」と納得し、頷いた。
最寄り駅から遠く先の会場まで人の波が長蛇に並び、全国各地からこれだけのファンが集合し三沢を悼む光景に、あらためて三沢光晴という男の存在と人柄に脱帽した。ぼくは会場まで何時間かかるかわからない「最後尾」と書かれたプラカードの横に並んだ。なぜだろうか。時折吹くそよ風が心地よかった。そして会場にたどり着く頃にはすでに涙が頬を伝っていた。団体選手一同、関係者各位が心を殺して事務的に仕事をこなし、大勢の参列者の対応に追われていた。その中に三沢光晴の最後の対戦相手であった斎藤彰俊の姿があった。実は三沢の最後は、斎藤のバックドロップを受けて立ち上がれなくなり救急車で病院に運ばれ、結果的にその技が決定打になってしまったのだ。斎藤は涙を流し懺悔の日々を送り、心許ない人間たちからの嫌がらせや罵倒を受け、自殺寸前にまで追い込まれていた。斎藤は参列者が前を通り過ぎるたびに頭を深々と下げていた。そしてファンからの「負けるな、がんばれー!」「これからも応援します!」などの掛け声に大粒の涙をこぼしていた。
これだけは述べておきたい。三沢の死因は受け身の天才故、これまでの危険な技をすべて受け止めてきた蓄積と、ノア新団体旗揚げからの社長業の筆舌に尽くしがたい過度の疲労であり、それは晩年の三沢の顔色や弛緩した張りのない腹回りをみれば一目瞭然である。月日が経ってもいまだに斎藤の批判を語る奴は、三沢に代わってエルボーを叩き込んでやるので覚悟してほしい。
大御所のレスラーたちが見守る中、特別リングを設置しそこに次々に数えきれない花束やグッズが投げ込まれていく様がなんとも切なく、飾られた三沢の遺影が霞んで見えた。酒好きな三沢のために買った缶ビールは、たどり着くあいだにすでに冷めきっていた。ぼくは「三沢さん、許して」と精一杯握りしめリングに向かって投げ込んだ。会場は三沢の入場曲「スパルタンX」がレクイエムとして黄泉への餞として流れている。ぼくは拳を何度も突き上げ、本当に府立体育館の天井に届くと思っていた「三沢コール」をもう一度だけその場で三沢の遺影に向かって突き刺し、「ありがとー!」と一言だけ声に出して会場をあとにしたのだった。
個人的な追憶を綴ったが、ぼくにとってそんな6月13日は「無意味な日」ではなく「有意な日」として、心に刻み込まれている。

それぞれの蹄跡

胸がドキドキしている。今週末、日本競馬界の最高峰のレースが東京競馬場で行われる。
そう。日本ダービーである。日本ダービーというと、競馬を知らない方も一度は耳にしたことがあるのではないか。実は日本ダービーは副称であり、本来は「東京優駿」が正式なレース名である。
かれこれ本格的に競馬をやりはじめて10年以上経つであろうか。きっかけは、当時東京で広告代理店の営業マンとして働いていたときだった。世間では何やら「ディープインパクト」という名の馬が賑やかしていた。「競馬か・・・」そのときのぼくは殊更興味を抱くことなく、ひとつのギャンブルとして捉えていた。こどもの頃には、サッカーボーイがオヤジたちを熱くさせていた。学生の頃は、ダービースタリオンが爆発的人気を誇り、やれ、ナリタブライアンヒシアマゾンだと、友人たちが喚いていた。それでもぼくは興味を引くことはなく、むしろ同じギャンブルでも麻雀やパチンコに熱を入れていた。それが、自宅のテレビで何気なく流れていたディープインパクトが無敗の三冠馬となった菊花賞のレースを見て、競馬の魅力を痛烈に感じた。ブラウン管から届くサラブレッドの容姿が目に焼き付き、直線、他馬を寄せ付けない圧倒的な強さでゴールしたディープインパクト。ジョッキーの武豊はその走りを「飛ぶ」と形容したが、引退レースの有馬記念を見ればわかると思うが、間違いなくあの馬は飛んでいた。
そんなわけで、はじめは目もくれなかったディープインパクトがきっかけとなり、関西に戻ってからは阪神京都競馬場に足繁く通うことになる。競馬とは、文字通り「馬」が「競う」わけだが、その年生まれた7000頭ほどのサラブレッドで、わずか18頭しか一生に一度の日本ダービーの舞台に立つことかできない。一頭、一頭どんな轍を歩いてきたのだろうか。馬と会話が可能ならば、飼い葉を肴にだだっぴろい牧場でインタビューでもしてみたいもんである。
2017年、5月28日。生産者、オーナー、調教師、助手、ジョッキー、すべての関係者とファンの願いを背に、新緑の季節に薫風が爽やかに吹き抜ける。

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結果にコミット

運動不足である。30歳も半を過ぎて仕事やプライベート以外で身体を動かす機会が年々減ってきている。振り返れば子供の頃からスポーツは苦手であった。当時は肥満児で小学校のリレー競争やマラソン大会、鉄棒の逆上がりなど苦痛でしかなく、体育の時間は嫌で嫌でしょうがなかった。そのくせ身体を動かすこと自体は嫌いではなく、ノルマや条件を強要されなければ、マイペースで身体を鍛えたりすることは案外平気であり、学生時代までは何かしらのスポーツをコツコツ励み、踊れるデブを目指していた。それが社会人になってからは、仕事や時間や環境や私財などを言い訳に、知り合いからの誘いにも応えられず、かといって率先してクラブチームやサークルに参加するわけでもなく、ただ指をくわえて眺めてるばかりで、気づけば30歳を過ぎ半ばに突入した。
昨年、幼なじみの同級生が脳卒中で倒れた。幸い自宅だったので、嫁さんが救急車ですぐに病院に運んだので一命を取り留め、長期の入院を強いられたが後遺症なども残らずにすんだ。話を聞くと高血圧や遅くまで仕事で働いていたことなどが要因としてあるかもしれないが、なんの前触れもなかったという。彼には家族もあり、いまは再発の恐れもあってタバコも止めて酒も控えている。
ぼくらの年齢でも起こりえてなんら不思議ではないと再確認させてもらった反面、もうそんな年齢になったのかと感慨が先に立った。また身近な仲間だったということで、強く意識したのかもしれない。酒とタバコは止められないとしても、せめて身体だけは日頃から動かさなければいけない。
本当は何年も前からスポーツジムに通っている。週に2回ほど、ランニングマシンやプールで汗を流していた。ただ、所要で通えないときがあったり、時間がなくてサウナしか入らなかったり、まったくといって活用できていない。
ぼくの通っているジムはCMで話題になってる某スポーツクラブではなく、駅前にあるちいさなフィットネスクラブで設備もさほど整っていない。膝に負担がかからないということで、プールをよく利用しているのだが、全長12メートルほどでコースも2つしかなく、泳ぐゾーンと歩くゾーンに分離され、1コースに4、5人も入水すれば軽い渋滞が起こる。そんな惨事の中を、おばちゃん連中(60~70代)は同世代の仲間らといっしょに談笑しながらゆっくりとウォーキングするのだ。それがまた大きな声で話をするので室内の反響もあってか、水のなかでもいやが上にも飛沫とともに聞こえてくる。関西のおばちゃん連中はデリカシーがないというか、ある意味潔いというか、真面目な連中をしり目に「スーパーの激安情報」や「どこそこの~さんがさ」など、どうでもいい品評会を永遠とぐるぐると回遊しながら、しまいには話がつきないのかプールから上がっても隣のジャグジーで足湯さながら爆笑している。もはや女子会といったかわいいものではない。それは元気のいい老人たちが病院を私物化してしまうのと同じで、まさに裸の王様というべきか。歳を取るにつれ、若い頃なら許せなかったことが図太くなるのもわからなくもないが、もう少し周りのことを考えてもらいたい。
話が逸脱した。私、この機会にダイエットはじめます。

しんせかい・番外編

新世界を後にしたぼくらは、ふと、同じ感情を抱いていた。「飛田」って近いよな。昼間からのアルコールが拍車をかけている。「飛田」とは通称飛田新地のことで、西成区の山王地帯にある戦前から残る赤線、いわゆる遊郭である。大阪には他にも松島新地や信太山新地といった遊郭が残存し、その独特なやり取りや雰囲気が貴重とされ、なにぶんひた隠されるが映画にドキュメンタリー、小説などでいまなおフューチャーされている。
その一帯は、表向きは料亭、旅館だが長屋のように区画に連なり、スナックの名前にありがちな店名が桃燈のように掲げられている。基本的に呼び込みする女(基本的に年増な女性)の横に、座布団の上から手を振る二十歳前後の女の子がいる。特筆べきことは、その女の子が皆かわいいのである。ライトアップされ見映えするからか、どこかのアイドルグループか人気AV女優となんら遜色ないのである。通りを歩くたびに、おばちゃんの呼び込みとともに、セクシーなコスチュームと営業スマイル100点の笑顔で男性の心を誘惑してくる。いやが上でも顔はにやけてしまい、下半身は熱くなる。ぼくと友人は冷やかし半分で、メイン通りを歩きながら女の子を物色してみた。全国的にも有名なのか観光客や若者の団体が多く、あちこちの店先の前でなにやら値段交渉や情報収集に力を入れていた。
しかしながらこの時代にこういった色街が残っているのは、奇跡に近いのではないか。裏付けとして母体組織がしっかりしていることもあるだろうが、呼び込みのおばちゃんはじめ、キャストの女の子にしろ、世間体や偏見に屈しないプライドを心の奥底にしっかりと保持しているからであろう。それは開き直りや屈折した感情ではなく、純粋に旅客を案内しようとする矜持であり、サービス精神ではないだろうか。どちらにしろ、このアンダーグラウンドな世界をいつまでも存続していただきたいと切に思う。
システム自体は、女の子を指名し二階の個室でことを済ませるのだが、料金や時間など初めて来られる方は、事前に調べといたほうがいいだろう。この日は昼間に訪れたが、夜はさらに妖艶で怪しい光を放っている。また写真撮影は絶対禁止となっているのでご注意を。

しんせかい③

とりあえず、飯を喰らおうということで、串カツ屋に入ることにした。新世界の食べ物屋がすべて串カツ屋といっていいほど、チェーン店から個人営業まで、まあ、ひしめき合っている。店の前には若い従業員が元気のいい声で呼び込みをし、慣れたもので外国人や他府県の観光客にも臆することなく声をかけては店内に誘っていく。あの年齢であの営業努力は並みではない。感服する。
経験上、店選びは客がそこそこいるところがいい。この「そこそこ」が難しい。店の前を行っては帰って状況を把握するのだ。新世界の串カツ屋で有名な「だるま」はいつでも混んでいる。なので、ぼくらはワンランク下(単なる感覚にすぎない)の串カツ屋の暖簾をくぐった。店内は丁寧に油で塗装され、美味しそうな臭いが充満している。カウンターに腰を下ろし、串カツの盛り合わせと生中を頼んだ。晴天の休日の昼間にアルコールを摂取し、熱々の串カツを頬張ると、意味もなくふたりとも納得した。店を後にしたあとは、新世界を適当に巡り、帰りに通天閣を眺め写真に収めた。帰りにじゃんじゃん横丁を歩いていると、細い路地に懐かしい将棋指しを見つめるオヤジたちがいた。その顔は、やはりこの街でしか生きていけない人たちの顔であり、この街を愛している慈愛に満ちた眼差しだった。つかの間、その横でオヤジたちに囲まれた初老があぐらをかいて叫んでいた。ぼくらは互いに苦笑いを浮かべ、新世界を後にするのだった。

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しんせかい②

ぼくらは昼前に天王寺駅で待ち合わせ、新世界まで運動がてら歩いて行くことにした。関西では認知されている天王寺動物園だが、この周辺は阿倍野再開発地区であり、あべのハルカスを筆頭にここ数年で大阪でも目覚ましく劇的に街全体が変貌した地域でもある。青春時代をこの街で過ごしてきたぼくには懐かしく、あの頃この界隈はまだ古き良き昔の面影を残していた。味のある呑み屋街、さびれた本屋、純喫茶など街を闊歩するだけで、けっこういけた。一方で、ニュースでも取り上げられた青空カラオケ屋台の強制撤去(詳しいことはまたどこかで)など、当時この周辺にいたホームレスの人たちは一体どこに行ってしまったのだろう。 今や若者やファミリーが楽しめるスペースに移り変わり、時代のニーズを取り入れた商業的な施設の場として週末は賑わっている。
ぼくらが当時の昔話に花を咲かせていると、忽然と「SINSEKAI」の入口が飛び出てきた。少し興奮している自分がいた。なんだこの高揚感。連休のせいか、やたら観光客が多い。外国人も多い。そんな外国人に「あんたは何人や?」と昼間からすでにできあがっている爺さんが、小粋なステップを踏みながら話しかけている。危ない。昔、道端で靴の片方だけを「100円」と書いて売っていたオヤジの姿を思い出した。遠くでは揉め事が起きているのか、奇声に近いオヤジたちの咆哮が耳に届く。ぼくは大袈裟ではなく、勇気を絞りだし足を踏み入れた。