路地裏のブルース

久しぶりにキクリンの近況を書こうと思う。キクリンは何度かこのブログにも登場したことのあるミュージシャンで、関西を中心に奔放にシャウトしている幼なじみだ。そんな彼も当然、平日は仕事を全うしていたのだが、20代の頃からアルバイトでお世話になり、社員として現場主任まで任されていた会社を辞めたと昨年末に耳にした。話を聞くと知り合いのライブバーに住み込みで働くことになったという。オーナーは隣接する居酒屋も経営しているらしく、ゆくゆくは職人として料理も切り盛りして店を任されるらしい。
本人から話を聞いたときに、「好きなことを仕事にする」ということに、プライドや年齢は関係ないのかも知れいないと変に納得してしまい、友人として陰ながら応援してやりたいと思えたのである。
「店の場所はどこなん?」と尋ねたところ、「西成の萩ノ茶屋」と答えた。あの、漫画「じゃりん子チエ」の舞台でもあり、大阪の下町も下町で、最近は日雇い労働者向けの宿泊所が海外からのバックパッカーを呼び寄せて話題にもなった。
大阪人は「西成」という地域を警戒している(あくまでも私見です)。治安が悪いイメージを抱いている方もいるだろう。ぼくは常に不穏な空気が漂いながらも、大袈裟だが、人間の本質というか凄みというのか、そこでしか生きていけない人たちの呻きに似た感情を同化してる町のように思えてならないのだ。
あくまでごく一部の住人だけでほぼ普通の町と何ら変わらないのだが、そんな西成に地元を離れて住み込みで暮らしているキクリンを冷やかしに行ってきた。四つ橋線花園駅に降り立つと真冬の厳しい夜風が身に染みた。ぼくはマフラーを強く結びポケットに両手を突っ込みながら、味のある商店街の典型ともいうべき鶴見橋商店街を通り抜けると、左手に「あき酒場」という暖簾が目に飛び込んできた。こじんまりした店構えから何か楽しげな空気が漂っている。扉を開けると前掛け姿のキクリンが初々しく出迎えてくれた。どの料理も安価で味も悪くない。店内はマスター好みのブルースが流れている。ぼくはあえて長居はしなかった。
何かを始めることに早いも遅いもないのだろう。キクリンの充実した笑顔が物語っていた。場末の路地裏でキクリンのシャウトを聞いた夜だった。

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鞍とムチのレジェンド

先日、関西スポーツ賞の表彰式が開かれて特別賞に競馬界から武豊騎手が選ばれ表彰された。
数々の記録を打ち立ててきた競馬界のレジェンド、武豊騎手が昨年、空前絶後JRA通算4000勝を達成した。1987年3月のデビュー以来31年6カ月、2万1235戦目での“大台”到達だった。インタビューに流暢に応えるその容姿、振る舞いはとても50歳を目前に控えるおじさんには程遠いものだった。
振り返れば競馬を見る、買うようになって常に武豊というジョッキーが平行していた。今もなお、中央競馬の第一線のジョッキーとして毎週活躍し、メディアにも積極的に露出して競馬界の底上げにひと肌脱いでいる。日本で一番有名なジョッキーであることに異論はないだろう。
競馬を嗜むものなら、「武豊」を馬券でどう扱うかに苦労している人が多いはずである。例え人気がなくても武豊が騎乗することで、「武豊ならやってくれる」という「もしかして理論」がどうしても働く。逆にぐりぐりの人気馬で武豊が騎乗なら2着は固いだろうと思い込み、結果、散々な目に合うことにもなる。ファンや勝負師、競馬関係者さえ「武豊」という言葉に翻弄されている。昔、レスラーの前田明日がアントニオ猪木に「猪木なら何をやっても許されるのか!」と食ってかかっていたが、武豊もプライベートではお粗末なことがあっても、つまるところ普段の紳士的な対応やユーモアある受け答えを周知しているだけに、何をやってもゆるされる領域にすでに達しているのだ。
当然、一昔前ほど勝ち鞍も減っているし、大きな舞台で活躍することも少なくなった。昨今スポーツ界で「スター」が減少している時代に武豊の存在はやはり稀少であり、中央競馬界は外国人ジョッキーや藤田菜七子ジョッキーなど話題を振舞いているが、いずれにしろ、50歳を目前にした武豊がまだまだ日本の競馬界を牽引していくであろう。

トークの術

正月といってもここ数年、三が日も過ぎれば正月気分も消え去り、ただ仕事が休みなだけで特段重い腰を上げることもない日が大半ではないだろうか。一昔前は正月になると、スーパーや商店街などシャッターが下ろされ街全体が閑散として物悲しい寂寥感に満ちていたが、いまやコンビニにやファミレスにしろ1日から外を歩けば煌々と輝いている。おせち料理を振る舞いしめ縄を飾って新年を迎える家庭のほうが今や稀少なのだろう。
そんな中、ぼくが身を置いている機械関連団体や各業界組織では新年の顏見せでもある、賀詞交歓会が執り行われている。各地で1月下旬にかけて会員各社に向けて年頭の挨拶や今年の抱負を述べるものだが、致し方ないことだが、そういった場所での挨拶は常套で、干支にまつわる薀蓄や今年の景気や社会情勢など、語り手が違うだけで同じようなことを皆口にする。それ故こちらが取材していても類似した記事に陥ることが多い。
毎度思うのはこういった場所でのスピーチは簡潔に越したことなない。人によっては10分以上、延々と同じことを繰り返し話をしている。聴衆者の身になってもらいたい。しだいに足が痺れてきて自分なりの体勢を維持するのに集中してしまい、話の内容などまったく耳に入っていない人が多いのではないか。乾杯の挨拶ではダラダラとつまらない話を聞かされて、泡が消えたグラスをまたテーブルに戻す。ぼくらが酔う前に本人が自己陶酔しているのだ。確かに大勢の公衆の前で話すことは、緊張もするし言葉を噛んだり早口になったり、落ち着いて上手くスピーチするのは至難である。ぼくもできない。これはもう経験と慣れであろう。それでも相手の立場は想像できるはずだ。
「伝えたいことを簡潔に、そしてユーモアを交えて」。是非、皆の前で話す機会が多い方々は実践してほしい。

懐かしい光景

日東精工」という企業がある。京都府綾部市に本社を置く東証一部上場企業でもあり、精密ネジ、極小ネジでは日本のトップメーカーである。5年ほど前から小生が担当しているクライアントで、今では国内に留まらず、産機事業のネジ締め機や制御システム事業の計測・検査装置などと融合し「締結のトータルソリューション」をアジア各国を中心にグローバル展開している。
普段からお世話になっている同社を好意にしている理由のひとつは、経営方針でもある「絆経営」という、従業員は皆家族であり日東精工に関わるすべての人が幸せになるような経営を社員全員が実践しているからてあろう。企業の大小関係なく付き合っていると踵を返したくなる会社が多いのだが、同社に伺うと社員の皆さんの笑顔と挨拶でこれ見よがしにおもてなししてくれる。存外、この手の会社は多いものだが、どこかに隙というかマニュアルな感じが露呈するものだが、日東精工の社員さんらはそんなことを感じさせない気持ちのいい接客をしてくれるので、ちょくちょく遊びに行きたくなるのだ。
そんな日東精工で先日、創立80周年記念特別事業として「グローバルQC(品質管理)・改善発表会2018 日本大会・世界大会」が開催された。
同事業は「真のグローバル化」を目指すための具現化として、日本と同様のQC活動に取り組むもので、同社グループの成長戦略の一環として、品質レベルをさらに向上させる目的がある。台湾、インドネシア、中国、マレーシア、タイの海外現地法人の選抜メンバーが来日し、日本の本社や工場を見学、研修し、日本のモノづくりや最新技術を習得。大会では各国の改善事例を発表して、問題点や今後の可能性など意見交換を重ねた。
今回、取材させてもらった中の特別研修として綾部市立豊里中学校で国際交流イベントがあった。地域性もあるのだろうが、ぼくはあろうことか山奥の田舎の中学生らのういういしい姿に心を奪われてしまった。まだおぼこい容姿と淀みのないまっさらな瞳と笑顔に、普段、営為の疲労に溺れているおじさんはただただ感傷に浸ってしまった。訪問した海外の社員らも同じ気持ちだったようで、中学生からのウェルカムセレモニーや英語を駆使した〇×クイズなど、終始、日本の学生たちとの交流に笑顔が絶えなかった。ぼくは都会の子供を批判するつもりは毛頭ない。ただ、全校生徒が100人程度の田舎の中学生らは情報が希薄の分、好奇心が尋常ではない。こちらが気圧されてしまうほどだ。眼をキラキラと輝かせて何かを吸収しようと彼らは純粋に外国人に話しかけていく。情報時代に振り回されているぼくらは大切な何かを見失っている気がした。本来、中学生はこうでなくてはならない。ぼくは感化されて気づけば普段以上にはりきって、カメラのシャッターを切っていたのだった。
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上京物語

ここ数ヶ月、出張や雑務でばたばたしていた。先日も二週続けて東京に出張であった。
毎年寒くなってくると、ぼくは東京の冬を思い出す。東京の冬は他県と比べて冷たい気がするのだがどうだろう。マインド的なものかも知れないが、からっとしている分、直接冷気が身体を刺す。この時期になると寒波が恐ろしく、常に厚手の着こなしで暮らしていた記憶がある。
というのも、ぼくは東京で暮らしていた。およそ6年間。二十代の人生の基盤となる大事な季節を、東京は三鷹市の六畳一間のアパートで一人で渡世していた。大学を卒業後、役者の道を志して郷里を離れて上京するも、アルバイトの掛け持ちや都会の誘惑にあっさり敗れ挫折し、池袋の広告代理店に就職した。その広告代理店も4年後にはリーマンショックの煽りを受けて縮小し、ぼくはいちから国に戻って今の会社に中途入社したのだ。
子どものころから「東京」に憧れがあった。住むなら中央線と決めていた。三鷹から新宿を経由して池袋までの尋常ではない満員電車も若さだけで毎日遅刻もせずに当時は出社していた。あの曜日や時間も関係ない人ごみの塊に我が身を置いていたことが信じられない。ただ毎日が刺激だったことで日々を乗り越えていたのだろう。
こうして東京から離れて暮らしていると、東京には人の数だけ夢や希望、葛藤やプライドが石ころのように転がっていたことを痛感する。東京で出会った仲間とは今でも連絡がつく奴もいれば取れない奴もいる。一流番組の制作に携わる者もいれば、社会に埋もれて悄然としてどこかに消えた者もいる。寒空の下、告白に失敗して井の頭公園から自宅まで自転車でわんわん叫びながら帰ったことがあった。あの肌を刺すような冷気はいまでもしっかりと記憶に残っており、ぼくの東京での思い出はほろ苦く屈折している。この時期になると過去の出来事を思い出して感傷的になる。それはクリスマスをひとりで過ごすからではない。そうであってほしいと願う。

USA旅行記⑧

5日間の滞在はあっという間であった。帰国の朝、サンタモニカの風を感じることができなくなるかと思うと、寂しくさえ思えた。旅立つ前は誰が火中の栗を拾うようなことに参加するかとごねていたが、いざ渡米するとそのアメリカの魅力を痛烈に体感し、同行した仲間らとも仲良くなり、この旅が終わろうとしている今、短期間だが間違いなく自分の人生にとって良い経験をさせてもらえたと断言できた。

成田空港に定刻通りに到着し、初めての海外で不思議なほど何のトラブルもなく、無事に大団円を迎えられたことが、会社としても一個人としてもほっとしたのが本音である。総括として、乗り物に目を瞑れば何度でも海外に行ってみたい。恥ずかしながらこの年でやっと気づかされた。ただみんなと解散後、時差ボケもなくこうして日本の地に帰ってくることができて、日本語があちこちで飛び交うこの環境に、ぼくは飢えていた日本食を求め蕎麦屋に駆け込んだのは言うまでもない。

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USA旅行記⑦

ロサンゼルスはシカゴとはっきりと違っていた。空港からホテルまでの街並みや景色もそうだが、シカゴと違ってすべてに洗練されていた。シカゴで感じた匂いや人種の感度、街全体から感じるスリリングな雰囲気ではなく、観光スポットとあって、きれいでオシャレでセレブの生活感が半端ない。車社会の代表的な州ということで、トヨタや日産などの日本車の利用者に驚きつつ、サンタモニカのビーチを車から眺めているだけで至福の時間を与えてもらった。
そしてロサンゼルス初日のお目当ては、本場アメリカでの大リーグ観戦であった。しかもあの世間を賑わしている大谷翔平選手が出場するという情報が。
夕刻、大谷選手が所属するロサンゼルス・エンゼルスの本拠地であるエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイムにホテルから車で移動して足を踏み入れたときに、そのスケールの大きさを言葉に形容できなかった。ただただ、感嘆詞しか出ず、目と鼻の先に毅然たる佇まいでバッターボックスに立っているひとりの日本の若者に感動を覚えた。そして何よりうれしかったのはエンゼルスファンが一体となって彼を応援していることだ。日本のプロ野球と違い、鳴り物や垂れ幕などなく、それぞれが純粋な気持ちで観戦し、ベースボールを心から愛している国なんだと心底感じた。ぼくは甘辛いホットドックを頬張りビールで流し込みながら、大谷が放った放物線の行方を目で追いながら、2塁打を放ったその若武者に胸が熱くなった。ぼくは果てしなく続く群青の夜空に、日本に戻ったらどう生きるべきかを問いたかった。今回の旅で一番の思い出になったかもしれない。