上京物語

ここ数ヶ月、出張や雑務でばたばたしていた。先日も二週続けて東京に出張であった。
毎年寒くなってくると、ぼくは東京の冬を思い出す。東京の冬は他県と比べて冷たい気がすのだがどうだろう。マインド的なものかも知れないが、からっとしている分、直接冷気が身体を刺す。この時期になると寒波が恐ろしく、常に厚手の着こなしで暮らしていた記憶がある。
というのも、ぼくは東京で暮らしていた。およそ6年間。二十代の人生の基盤となる大事な季節を、東京は三鷹市の六畳一間のアパートで一人で渡世していた。大学を卒業後、役者の道を志して郷里を離れて上京するも、アルバイトの掛け持ちや都会の誘惑にあっさり敗れ挫折し、池袋の広告代理店に就職した。その広告代理店も4年後にはリーマンショックの煽りを受けて縮小し、ぼくはいちから国に戻って今の会社に中途入社したのだ。
子どものころから「東京」に憧れがあった。住むなら中央線と決めていた。三鷹から新宿を経由して池袋までの尋常ではない満員電車も若さだけで毎日遅刻もせずに当時は出社していた。あの曜日や時間も関係ない人ごみの塊に我が身を置いていたことが信じられない。ただ毎日が刺激だったことで日々を乗り越えていたのだろう。
こうして東京から離れて暮らしていると、東京には人の数だけ夢や希望、葛藤やプライドが石ころのように転がっていたことを痛感する。東京で出会った仲間とは今でも連絡がつく奴もいればいない奴もいる。一流番組の制作に携わる者もいれば、社会に埋もれて悄然としてどこかに消えた者もいる。寒空の下、告白に失敗して井の頭公園から自宅まで自転車でわんわん叫びながら帰ったことがあった。あの肌を刺すような冷気はいまでもしっかりと記憶に残っており、ぼくの東京での思い出はほろ苦く屈折している。この時期になると過去の出来事を思い出して感傷的になる。それはクリスマスをひとりで過ごすからではない。そうであってほしいと願う。

USA旅行記⑧

5日間の滞在はあっという間であった。帰国の朝、サンタモニカの風を感じることができなくなるかと思うと、寂しくさえ思えた。旅立つ前は誰が火中の栗を拾うようなことに参加するかとごねていたが、いざ渡米するとそのアメリカの魅力を痛烈に体感し、同行した仲間らとも仲良くなり、この旅が終わろうとしている今、短期間だが間違いなく自分の人生にとって良い経験をさせてもらえたと断言できた。

成田空港に定刻通りに到着し、初めての海外で不思議なほど何のトラブルもなく、無事に大団円を迎えられたことが、会社としても一個人としてもほっとしたのが本音である。総括として、乗り物に目を瞑れば何度でも海外に行ってみたい。恥ずかしながらこの年でやっと気づかされた。ただみんなと解散後、時差ボケもなくこうして日本の地に帰ってくることができて、日本語があちこちで飛び交うこの環境に、ぼくは飢えていた日本食を求め蕎麦屋に駆け込んだのは言うまでもない。

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USA旅行記⑦

ロサンゼルスはシカゴとはっきりと違っていた。空港からホテルまでの街並みや景色もそうだが、シカゴと違ってすべてに洗練されていた。シカゴで感じた匂いや人種の感度、街全体から感じるスリリングな雰囲気ではなく、観光スポットとあって、きれいでオシャレでセレブの生活感が半端ない。車社会の代表的な州ということで、トヨタや日産などの日本車の利用者に驚きつつ、サンタモニカのビーチを車から眺めているだけで至福の時間を与えてもらった。
そしてロサンゼルス初日のお目当ては、本場アメリカでの大リーグ観戦であった。しかもあの世間を賑わしている大谷翔平選手が出場するという情報が。
夕刻、大谷選手が所属するロサンゼルス・エンゼルスの本拠地であるエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイムにホテルから車で移動して足を踏み入れたときに、そのスケールの大きさを言葉に形容できなかった。ただただ、感嘆詞しか出ず、目と鼻の先に毅然たる佇まいでバッターボックスに立っているひとりの日本の若者に感動を覚えた。そして何よりうれしかったのはエンゼルスファンが一体となって彼を応援していることだ。日本のプロ野球と違い、鳴り物や垂れ幕などなく、それぞれが純粋な気持ちで観戦し、ベースボールを心から愛している国なんだと心底感じた。ぼくは甘辛いホットドックを頬張りビールで流し込みながら、大谷が放った放物線の行方を目で追いながら、2塁打を放ったその若武者に胸が熱くなった。ぼくは果てしなく続く群青の夜空に、日本に戻ったらどう生きるべきかを問いたかった。今回の旅で一番の思い出になったかもしれない。

USA旅行記⑥

2日間のシカゴ滞在を終えた一行は、次なる目的地ロサンゼルスに向かうことになる。そう、「LA」である。なぜロサンゼルスに向かうかというと、表向きはロサンゼルスにある工作機械メーカーの工場見学のためであるが、それよりもロサンゼルスを満喫することがわれわれの真の目的である。ハリウッド。ビバリーヒルズ。サンタモニカなど素人のぼくでも耳にしたことのある固有名詞が溢れている。映画の都。高級住宅街。リゾート地。どこをとっても一流の観光スポットが目白押しでいやが上にも心が弾んでしまう。
旅立つ早朝、清々しいシカゴの朝にはこれまた文句のつけようのない朝日が全身に鋭気を養ってくれた。えらいもので、余裕がでてきたのか自然と口からは「グッドモーニング」「サンキュー」などの簡単な単語で会話が交わせた。朝食後、ホテルをあとにし程よい緊張感を保ちながらカーチェイスを堪能して再びシカゴ空港に向かった。
東から西へ。またもフライトが待ち構えている。4時間ほどだがあなどってはいけない。精神統一をして機体に念じた。ロサンゼルスはシカゴより2時間遅れているという。このアメリカ本土のタイムラグに戸惑いながら、ぼくらはまたしても時計の針を戻すことになった。少し落ち着いていたのか窓を覗いてみた。上空から見下ろすアメリカ大陸は雄大で壮観だった。3日ほど前まで日本を出たことがなかったぼくがアメリカ大陸を席巻している。不思議な気持ちになりながら浅い眠りに落ちていった。そして眠りから覚めるとそこはLAだった。

USA旅行記⑤

翌朝、ホテルから展示会場のマコーミックプレイスまでは現地のハイヤーが送迎してくれたのだが、まあ、運転の荒いこと、荒いこと。スピードが尋常ではない。だだっ広い幹線道路を縫うように通りすぎていく。高速の車窓から目を凝視すると、どの車もスマホを片手に運転しているではないか。話によればアメリカは運転免許の取得に関してかなり緩いらしい。技術は社会で育むとばかりに簡単に免許を取らせてくれるわけだ。ぼくたちは手に汗握りながら映画さながらのカーチェイスを体験することになり、スリリングな経験をした。
ようやく会場に到着してガイドの女の子の誘導で受付を済まし入場することができた。一言で形容するなら、「デカイ」に尽きる。展示している工作機械ももちろんだが、会場の広さに面食らった。一つのフロアの端から端までにたどり着くことさえ一苦労である。1日では回りきれないだろうし、じっくり勉強して回るなら最低3日は必要だろう。基本的に日本の展示会と変わらないが、スケールの大きさに飛び交う英語と異邦人の空間に地に足がついていない。そんな中で、「DMG森」「マザック」「牧野フライス」などの見慣れた日本企業がメインの展示会場の小間を大きく陣取り、日本企業の勢いをまざまざと見せつけてくれていたのは心強かった。
取材は不安でいっぱいだったが、概ね問題なく指令された任務は遂行できた。ぼくは一息ついて、大雑把な味付けのサンドイッチを頬張りながら、展示会場を見回した。入場した時に感じた、暗黙の人種差別が目に留まる。例えば誤解を承知で記述するなら、トイレ清掃や館内清掃、誘導員などは黒人オンリーであり、企業のブースには白人だけが商談している。つまり見えない部分はすべて黒人に働かしている社会なんだろう。しかしながら、この国ではそれが当然のように、誰も肌の色の差別に固執することなく、アメリカ社会の普遍的な日常と捉えていることに驚いた。
アメリカのようにあらゆる人種が行き交う社会に、白人以外のアイデンティティーの表象は想像以上に困難なことではないかと、コーラを飲みながら遠く離れたいちジャパニーズの抱いた感想である。

USA旅行記④

ホテルに着いたわれわれ一行は、添乗員からスケジュールの確認や注意事項を受けて、お待ちかねの夕食を迎えた。道中、アメリカの広大さと車の運転の荒さにへとへとになっていたぼくは、またアメリカ文化にやられることになる。それは出てくる料理の重量感だ。まず、ひとりぶんではない。話に聞いていたが、目の前のおおざっぱな切り口のステーキが見た目だけならともかく、味そのものがおおざっぱなのだ。辛いか甘いかの二極と言っていい。ぼくは初の海外で浮き足だっていたので、砂糖をかじっているかのようなばかでかいアイスクリームも胃の中に放り込んだが、ツアーのメンバーは時差ぼけの身体にも堪えたようで辟易としていた。ともあれ、思いの外過ごしやすく湿気のないシカゴの気候は気持ちよく、大きなトラブルなくアメリカの初日を終えた。明日からはいよいよ仕事である。

USA旅行記③

なんてことはない。空の旅は快適であった。臀部の痛みも許容範囲だったし、心臓が飛び出るほどの揺れもさほどなく、順調に飛行してくれた。人生初となると機内食も堪能しトイレも問題なく利用できた。機内でのスチュワーデスらのサービスは文字通り癒されたし、何よりそのスマイルや所作に「安心」という心強い言葉を投げかけてくれた。
とはいえ、普段体験しない長距離移動にわれわれはぎとぎとの顔つきでアメリカに舞い降りた。
ぼくは空港内とはいえ、初めて日本以外の国の土地に降り立った瞬間は感慨深く興奮を覚えた。油断していると、すぐさま外国語に対して苦手意識を持っているぼくに、最初の難関といえる入国審査が近づいてきた。目の前に映画などでよく目にする、ずらっと並んだいかつい男たちが次からつぎへと獲物を捕らえていく。ぼくの前に並んでいる日本人の獲物が次々に男たちに捕獲され、いたたまれない表情をしてゲートを通過していく。いよいよぼくの番が回ってきた。ドギマギしたり曖昧な返答を繰り返したりしていると同じように惨めな思いにさらさられるのなら堂々と受け答えをしてやると、ぼくは一歩を踏み出してそのやる気のない悪そうな白人の外国人に言ってやった。「ハロー」。その刹那、引きつった笑顔のぼくは身体に虫唾が走ったのを覚えている。そこからは多分、多分だが「早く指紋を押せ」とか「お前は何しにここにきたのか」など質問していたに違いない。しまいにはあたふたしているぼくをその外国人は、「やれやれ、これだからジャップは困るぜ」と言わんばかりに仕方なく檻から逃がして通過させてくれた。結局、見事にぼくもやられたわけである。情けない。バシッと英語で受け答えができたらどんなにかっこいいかと、ツアーの仲間らと傷の舐めあいながら、疲弊したぼくらは宿泊先のホテルに向かった。