LOVEはじめました②

開演10分前に入場すると、まずその長居スタジアムの広大さに驚いた。陸上競技場として、数々のスポーツの祭典の舞台や世界のイベントに利用されてきたこの聖地に足を踏み込めるのは、高校球児が甲子園の土を踏むかの如く、ぼくは何かを達成したわけでもないのに、ひとり感傷に溺れて漠然と立ち尽くしていた。すでにスタジアムは見渡す限り人の山で、ほぼ満席に埋まっている。ぼくらはアリーナ席のちょうどステージから中央付近の場所で、ステージ上の演者を目視でき、なおかつ全体を見渡せる文句のない最高の場所であった。
開演が近づき緊張と興奮が最高潮に達し、スクリーンに過去の名曲にまつわるPVやアニメーションが流れ、ステージにミスチルのメンバーが遂に登場した。はっきりいって、そこからライブ終了までの記憶がほとんどない。これからライブに行く人もいるだろうから、詳細は省くが、期待を裏切らない素晴らしいライブだったことは伝えておきたい。2曲目の「シーソーゲーム」でやられてからは、怒涛のラインナップに打ちのめされ、最後の「終わりなき旅」のときにはもう完全にKOされた状態で、3時間の激闘に茫然と夜空を眺めるしか力は残っていなかった。
まずライブ振り返って記すべきことは、ステージのセットや高画質なスクリーン、レーザー光線や照明、音響に至るまで一流も超一流で、計算尽くされたクリエイターたちの失敗を許さない妥協なきプロ魂がひしひしと会場全体に伝わってきたことである。途中からは何か映画を観るような、ぼく自身がスクリーンに吸い込まれ出演している感覚に陥り、これだけでお釣りがくるなと思う。そしてミスチルメンバーの凄さをいやというほど堪能した。まず、メンバー全員が40代後半にさしかかったとは思えない身体が示唆するように、真夏のステージで3時間も歌詞も間違わず高い奇声を張り上げて走り回れる体力が、もう尋常ではない。普段から鍛えているのだろうと察しはつくが、プロというのはやはりプロであって、日本のトップアーティストに長年君臨し続ける理由がライブを観戦すれば一目瞭然で理解できた。何よりオーディエンスを意識しながらも巧みに演出するあたりが、したたかで銭を取れる数少ないアーティストで、その答えが年代を越えて若者からおじさんまでを夢中にさせてしまう能力なのだろう。
ライブ終了後、ぼくは夜道を歩いていた。きれいな夜空だった。数十年振りのライブがミスチルでよかった。しかしまあ、音楽の力とは計り知れないものだ。またミスチルファンは、過去のアーティストのファンに比べマナーもよく、文字どおり音楽を楽しんでいるなと好感がもてた。心地いい夜風を肌に感じながら帰路に着き、さっそくミスチルの昔のアルバムを取り出したのは言うまでもない。

f:id:kaba1981:20170814201838j:plainf:id:kaba1981:20170814201927j:plain

LOVEはじめました①

8月である。夏である。連日、関西地方は猛暑日が続いている。今年は不規則な天候なうえ、集中的な豪雨や台風に見舞われ、一部の地域では甚大な被害をもたらした。被害に遭われた方々へ心よりお見舞いを申し上げ、筆を執らせてもらう。
夏の思い出作りに、Mr.Childrenのライブに行ってきた。あの「ミスチル」である。学生時代はよく聴いたアーティストのライブやフェスには行ったけれど、社会人になってからはそんな機会も皆無になり、10年近く前に下北沢のライブハウスでクロマニヨンズを拝見したのが最後だろうか。
なぜ日本を代表するミスチルのライブに行けるのかというと、学生時代の仲間が長年ミスチルの追っかけをしていて、以前から誘ってもらっていたが、今回ようやく奇跡的にチケットが余りぼくに声がかかったのだ。彼女は時間と私財を費やし全国のライブツアーを全部回るほどの筋金入りで、ミスチルというか桜井和寿(彼女は敬愛を込めて和くんと呼ぶ)を崇拝し、プライベートから楽曲に至るまですべてを熟知している。そんなファンクラブ会員でさえ予約が難しいチケットを譲ってもらい、大阪市長居スタジアムに足を運んだ。
白昼の長居公園は大変なことになっていた。長居スタジアムはサッカーのセレッソ大阪のホームスタジアムで、試合の日には大変な混雑になるが、そんな比ではない、人の塊が群れで占領していた。これからライブに行くファンは、皆お揃いのTシャツやツアータオルを首に巻いているのですぐにわかる。そしてミスチルの客層は年代が幅広く、若い10代の中高生から年の頃なら50~60代のお父さんまで、老若男女関係なくファンがいることに年代関係なく支持されているミスチルに感心した。
なんとか人の並みを掻き分けてスタジアムの側までたどり着き、彼女から無事にチケットを受け取った。彼女の他にも同じミスチルを介して全国から仲間が集まり久しぶりの再会を喜んでいる。そして、ミスチルの近況や昨日のライブの席が最悪だったとかライブのセットリストの確認だとか、すでにミスチル談義が行われていた。それこそ、旅費や宿泊費、チケット代など合わせると相当な額になるはずだ。北から南まで全国のライブに参加する彼女たちから、ミスチル愛が溢れでている。彼女たちを見ているとファンという存在がいかに貴重で、彼女らの存在でアーティストは成り立つ商売なのだと改めて気づかされた。
夏の日差しが強く汗がとめどなく流れてくる。本番まで30分を切った。今回のライブツアーは「Thanksgiving25」と銘打って、25周年を迎えたライブツアーらしい。なので、普通のツアーとは違い過去の名曲や普段演奏しない曲を、感謝を込めて披露するそうで、最近のミスチルを全く知らないぼくとしては助かった。
ぼくはライブが始まるまでに間に合うかわからないほどの長蛇の列に並び、頭の中のラジカセのスイッチをポチっと押して「イノセントワールド」を聴きながらライブに備えた。

ものづくり物語

仕事で大阪の花博記念公園(鶴見緑地)で毎年開催されている大阪建団連主催「建築・土木技能体験フェア」の取材に行ってきた。「明日の日本を担うスペシャリストを目指して」をテーマに掲げ、型枠、測量、塗装、左官、設備などのブースを設けて、いわゆる「職人さん」をより身近に感じてもらおうと、一般の方や就職を控えた工業系や専門分野の高校生、大学生に無料で体験してもらうイベントである。夏の日差しに照らされた職人さんたちは、みな男らしい精悍な顔つきで、日焼けした肌と無駄のない引き締まった身体が逞しく、クーラーの効いたオフィスで悠々とパソコンをいじっているサラリーマンがかなう人達ではないと心底思った。各ブースではそれぞれ来場者に実際の仕事を体験してもらえるように工夫され、足場で作られたツインタワーに上る「鳶体験」や左官職人による「壁塗り体験」、また大阪工業技術専門校の生徒たちによる棟上げなど
本格的な職人技と高い技術力を紹介していた。家族連れにも楽しんでもらえる、「カンナ削り競争」や「丸太切り競争」など、普段何気なく目にする建築物の最初はこんな作業を積み重ねて行われているのかと、その緻密な作業に素直に驚かされる。板金コーナーでは、職人が手先だけで「鶴」を完成させ、設備ブースではダクトで貯金箱を作ってみせる。
賃金の割に過酷な労働時間、社会保険の未加入問題など、若者が入らない現実に後継者不足が深刻化し、業界全体が抱える難題が多いのは事実だ。ただ、こういったイベントや地道なPR活動を継続していくことで、世間に認知され業界全体の地位向上、底上げに繋がっていくと信ずる。それは、ひとつのことを愚直にやり続ける職人さんたちの仕事を見れば充分だ。

f:id:kaba1981:20170731223758j:plain
f:id:kaba1981:20170731223818j:plainf:id:kaba1981:20170731223831j:plainf:id:kaba1981:20170731223848j:plain

ブルースを蹴飛ばせ

以前にも紹介したことのある、友人である菊永のライブに行ってきた。キクリン(呼び名)はぼくの中学校の同級生で、名前の順でたまたま後ろの席にいたのが彼であり、そこからかれこれ20年以上の付き合いになる。お互いまだ独身で自由がきくこともあり、最近ちょくちょく顔を合わせることが多い。キクリンはクーラーや冷蔵庫などの加工や組み立てを請けもつ会社で働いている。工場主任として現場を任され、工場ラインが滞りなく流れているかを監視しているらしい。そんな彼は趣味で長年音楽活動をしている。幾多のバンドを経験し、現在はギター片手に弾き語りを主に近畿圏のライブハウスで精力的に活動している。ぼくも恥ずかしながらギターをかじっていたが、それこそ中学校時代に彼の家でギターを教わっていたのも懐かしい。中学、高校の多感な思春期に、誰しもが何か悶々と自分の存在意義や自己証明に駆り立てられる経験があると思う。当時、非行に走る仲間もいた。それはそれで当時のぼくらには正直で貪欲だったんだろうと、いまは理解できる。たまたまぼくはラジオから流れてきた音楽に心を奪われたにすぎず、キクリンも同じシンパシーを抱いたのかもしれない。
キクリンの音楽は独創性に溢れている。それは今も昔も変わらない。正直、万人に好かれるとは思わない。ギターの腕前は素人でもわかるほど上手く、名前だけのギタリストよりよっぽど上等で、それだけで食っていけるんじゃないかと関心させられる。彼が渾身に奏でるメロディーに乗せて弾き飛ばされる言霊。まさに誰にも真似できない、というよりも真似をしようと思わない固有なキクリンワールドが魅力なのかもしれない。少し褒めすぎだろうか。毎回、毎回、ライブの告知があると連絡をもらっていたが足を運ぶこともなく断ってきたが、今回、数十年振りにライブハウスに彼の雄姿を見に行くことにした。場所は大阪の扇町にある「扇町para-dise」。天神橋筋商店街の通り沿いにあり、天神祭を間近に控え周辺は慌ただしかった。すこし歩くとタバコ屋の角に地下に繋がる入り口があった。狭い階段で受付を済ませ重い扉を開けると小さな店内に3~4人の人影があった。若い男の子が何人かと壁際にコクりと居眠り中の親父だけだ。何年ぶりかにライブハウスに訪れたが、まだ誰も立っていないステージに照明で照らされたマイクロフォンが物悲しく、ハコ全体を覆っている独特のひんやりとした空気が妙に愛しかった。ステージで同級生のおっさんがギターに汗が流れ落ちるほどシャウトし、お世辞にも上手くないトークで会場を温めようとする気概が照れ臭く、出会ったころと変わらないキクリンの姿にぼくは安心した。気づけば壁際で寝ていたオヤジも手を叩いている。もし彼のライブを一度拝見したい方がいるならご一報を。ただし責任は持ちません。

f:id:kaba1981:20170720222657j:plain
f:id:kaba1981:20170720222727j:plain
f:id:kaba1981:20170720222836j:plain

今夜も馬耳東風

宝塚記念」に参戦してきた。競馬である。お馬さんである。暮れの有馬記念と同じくファン投票で出走馬が決まるG1レースであり、初夏の仁川で熱い戦いが繰り広げられる上半期のグランプリ決定戦。それが年々出走馬の辞退が相次ぎ、今年も11頭立の寂しいメンツとなった。そんな中、ファンの注目はやはり「キタサンブラック」だったのではないだろうか。最近はテレビなどマスコミで取り上げられる機会も多いのでご存知の方も多いだろう。前走の天皇賞も快勝し、人気、実力ともに国内ナンバー1のキタサンブラックは、オーナーがあのサブちゃんこと北島三郎でジョッキーが武豊である。話題性もビジュアルも文句がないところだろう。
先に結果から記すが周知の通り、そのキタサンブラックは直線半ばでいつもの鋭さがなくずるずると後退。馬券圏内にも残らず、圧倒的な1番人気だったこともあり、波乱の結末に終わった。
当日は朝から雨が降り続け、梅雨の季節特有の汗ばむ蒸し暑い熱気が充満していた。サトノクラウンが1着でゴールした瞬間、場内はため息とどよめきが入り交じり、キタサン馬券が紙吹雪の如く宙に舞った。きっと彼らはサブちゃんと一緒に勝利の「祭り」を歌い、「今宵はお祭りだ」と意気揚々と目論んでいたはずに違いない。ぼくもそのひとりだった。
それにしても、これだけの大衆がひとつの場所に詰めかけるスポーツは競馬ぐらいではないだろうか。たかが3分ほどの馬のレースのためだけに、時には10万人をも超える観客が集合し一喜一憂する姿は、競馬をやらない人からすれば異界に映るだろう。
今回は残念な結果に終わったが、あらためてギャンブルは難しいと体現できた。誰しもが負ける姿を想像できない馬があっさりと負けて、大敗続きの駄馬が一変しぶっちぎりでゴールする。ギャンブルは一銭の金が何十万、何百万と化け、数千万の大金が一瞬に消えてなくなるものだ。興行的に成り立つのはそこなのだろう。
しかしまあ、競馬場を訪れる度に思うのだが、ほんとうに年代性別問わず、さまざまなに人間がいることに気づかされる。一昔前はオヤジたちの鉄火場として、アルコールとタバコの煙で覆いつくされ、一般人には近づきがたかった。カップルがいるものならしけた目で見られたものだが、近年はJRAのクリーンなイメージを全面に出す戦略が効を奏し、カップルや若い女の子たちだけのグループも多く訪れ、100円の馬券が当たってはしゃいでいる姿はそれはそれで微笑ましい光景である。いまや家族連れにも楽しめる「ポニー」の乗馬体験や人気のB級グルメ屋台の出店など、イベントにも工夫を凝らし大勢の人で賑わっている。
80近い老夫婦が仲良くシートを広げておにぎりを頬張り予想をたてていれば、ゴール前で「そのまま!」と血管が浮き出るほど声を張り上げている小汚いオヤジがいる。競馬場に来て、馬券の調子が悪いときは、深呼吸でもして競馬場内を探索するのもおすすめである。馬を見るより面白いかもしれない。

f:id:kaba1981:20170701100906j:plain
f:id:kaba1981:20170701101020j:plainf:id:kaba1981:20170701101038j:plainf:id:kaba1981:20170701101101j:plain

「あきらめたらそこで試合終了ですよ」

日本のバスケットボール界は、フロント問題や幾度の変革、またプロスポーツ化によって対立や分断、統合、水面下から表だってまでさまざまな問題をここ数十年抱えてきた。過去のいざこざが、日本のバスケットボールの競技自体のレベルに反映したことも否めず、バスケットボールを愛する一人として、今後のあり方、協会の手腕に注目をしている。
そんな中、昨年の秋に新たな男子プロリーグが発足した。その名も「Bリーグ」。発足の経緯や目的などの詳細は同HPを参照していただきたい。先日にはB1リーグのシーズンが終了し「栃木ブレックス」が初代王者に輝いた。
栃木ブレックスには田臥勇太という選手が在籍している。バスケットに詳しくない一般の方も彼の名前をご存知かもしれない。名門能代工業時代には主要タイトルを総なめにし、留学や日本で功績を挙げ日本人初のNBAプレイヤーにもなった。テレビや雑誌で取り上げられ、一時期、田臥が日本のバスケット界を牽引していた。高校時代、はじめて田臥のプレーを生で見た衝撃と現在36歳となった田臥が重なり、ぼくは新たな日本のプロリーグの頂点で活躍している彼の姿に感慨深いものがあった。
そんなB1、B2リーグのプロリーグの下に「B3」というリーグが存在する。全9グラブが加盟し、レギュラーシーズンを戦い抜きB2リーグとの入れ替え戦にチャレンジする図式で、この辺は日本サッカー協会と組織的に近いかもしれない。そのB3チームの中に、「東京サンレーヴス」というチームがある。東京の調布、多摩地区を中心に活動するこのチームのヘッドコーチ、指揮官の名は「楠本和生」。そう、ぼくの高校時代の恩師であり、部活の顧問であった「くっさん」である。敢えてここでは親しみとリスペクトを込めて「くっさん」として表記して語ることをお許し願いたい。
くっさんについて述べることは、こっぱ恥ずかしく、また厄介で、思い出がありすぎて困るのだが、殊に高校から大学、社会人前半に共有した時間がそのままぼくの人間形成に大きく影響を与えた人物であるのは間違いない。はじめて出会ってからもう20年が経った。あのときのくっさんが、今のぼくより若かったというから、尚更月日の早さを実感する。
高校時代、ぼくは大阪でも評判の悪い男子校に入学したが、あのときくっさんと出会わなかったら確実に非行に走り、ドロップアウトしていただろう。金魚の糞のようにバスケット部のマネージャーとして常に楠本和生という男の側にいて共に行動し、ある時間を共有できたことは本当に貴重で財産となった。
一言で形容するならば、くっさんは金太郎飴であり、どこを切っても、どこを叩いても同じくっさんであるということだ。そしてバスケットボールというスポーツをこれ程までに熟知し、情熱を傾ける人間をぼくは知らない。あまりの熱量にこちらがむせびるぐらいだ。コーチとして190センチを越える体躯で全身で選手に伝える姿は頼もしく、不思議と側にいて安心感を与えてくれた。また特筆すべきは交遊関係で、バスケットボールの関係者ならすべて知り合いではないかと疑うほど幅広い。それは信頼の裏付けでもあり、くっさんと出会うとわかるがその魅力に皆翻弄されるのだろう。そういった実績や能力からオファーがあって、現在B3のヘッドコーチに就任したことは必定で、戦略やコーチングに定評があり選手の能力を引き出すことに長けているくっさんを東京サンレーヴスが迎えたことは大正解だ。
くっさん自身プライベートでは苦労し、どん底を味わった時期もあるそうだ。また我が強いあまり、他人に誤解や迷惑をかけることもあって、トラブルも多かっただろう。媚びない故、妥協しない故、失敗することも安易に想像がつく。ぼくも否定はしない。正直一人の大人として首を傾げることもある。ただ、そういった己の弱い部分や情けない部分を包み隠さず見せる姿を、ましてや教え子にさらけ出せるだろうか。一見、社交的で明るく健康的に思われるかもしれないが、本来、恐ろしく人見知りで、ネガティブであり、また他人に気を使いながら生きているのではないか。そしてぼくらが想像している以上に、寂しがり屋で人の温もりや愛情を必要としているように思えてならない。偉そうなことを述べてしまい申し訳ない。ただ、東京で一人暮らしをしながら、大好きなバスケットボールに携わり、50を過ぎても夢を持ち続けている我らがくっさんを誇りに思い、あと3年となった東京オリンピックでは日本のバスケットボールチームにくっさんが関わっていることを切に願っている。ぼくら教え子たちも先生に負けじと、それぞれ違うフィールドで活躍していきたいものだ。
先日、半年ぶりに先生と酒を交わした。先生御用達の大阪の上本町の地下街で、思い出話に花が咲き、あの頃と同じように頭をひっぱ叩かれるのも、この歳になっては新鮮であり痛快でもある。
皆さま。是非、くっさんこと、楠本和生と東京サンレーヴスをご贔屓に。

f:id:kaba1981:20170618161810j:plainf:id:kaba1981:20170618161825j:plain

スパルタンXが聴こえない

今年も6月13日を迎えた。この日はろくでもない友人の誕生日とは別に、ぼくにとっては殊に忘れられない日でもある。そう、プロレスラー、三沢光晴の命日である。
三沢が亡くなって今年で早8年を迎えた。忘れもしない2009年の6月14日の早朝。当時、東京で古びたアパートで暮らしていたぼくは、朝から二日酔いで酔いつぶれていた。そんなまどろみの中、突如携帯電話が鳴った。頭痛に耐えながらかろうじて液晶画面に目をやると、上京して初めて勤務したときにお世話になったアルバイトの先輩からだった。
「はい・・・。もしもし」「・・・・」。「もしもーし。田村さん?」「かばちゃん・・・。今朝のニュース見た?」「なんかあったんですか?」「三沢が・・・死んだ。」「えっ!?」
はじめ何を言っているのかわからなっかった。半分寝ぼけていたが、かろうじて意識は残っていた。電話の彼とはプロレス仲間で、陽が昇るまでプロレス討論会を二人だけで繰り広げたほど、熱い男でありプロレスを心から尊敬し情熱を傾けていた。そんな彼が朝から悪い冗談を言うはずがない。ぼくは完全に酔いが覚め、言われるがままにテレビをつけた。
三沢光晴選手が試合のあとに死亡しました」。ぼくはアナウンサーの口調や厳かな表情、試合後の三沢の経過や状況、死因など信じがたい映像と情報が耳には入ってくるが、気持ちはすでにそこになかった。
「嘘だろ・・・。あの受け身の天才がなぜ?」。しばらく放心状態でその場を動けなかった。そしてその日から仕事もプライベートも手につかず、ショックのあまり現実で起こっていることがすべて虚構に思え、あきらかに覇気を失っていった。
ぼくをプロレスの世界に引きずりこんでくれた選手が三沢光晴だった。往年のジャンボ鶴田タイガーマスクを脱ぎ捨て、三沢光晴として挑んでいった試合。若林アナ、竹内宏介氏の解説陣もさることながら、試合の展開からラストまですべてが完璧で、あの試合を超えたプロレスをぼくは知らない。
三沢が亡くなって1ヶ月が経とうとしていた。ぼくはあい変わらす鋭気を失い、日常生活でも身が入らない状態が続いていた。そんなとき、「三沢光晴選手の献花式」がディファ有明で執り行われることになった。ぼくはこの日を待っていた。何か三沢のいちファンとして、声をかけてあげたかった。一般人でも参列できることもあり、先輩にも声をかけたが、どうしても都合がつかないとのことで先輩の分も含めてひとりで会場に向かった。
最寄り駅に着くなり、ぼくはその光景に驚き内心「そうだよな。間違いないよ」と納得し、頷いた。
最寄り駅から遠く先の会場まで人の波が長蛇に並び、全国各地からこれだけのファンが集合し三沢を悼む光景に、あらためて三沢光晴という男の存在と人柄に脱帽した。ぼくは会場まで何時間かかるかわからない「最後尾」と書かれたプラカードの横に並んだ。なぜだろうか。時折吹くそよ風が心地よかった。そして会場にたどり着く頃にはすでに涙が頬を伝っていた。団体選手一同、関係者各位が心を殺して事務的に仕事をこなし、大勢の参列者の対応に追われていた。その中に三沢光晴の最後の対戦相手であった斎藤彰俊の姿があった。実は三沢の最後は、斎藤のバックドロップを受けて立ち上がれなくなり救急車で病院に運ばれ、結果的にその技が決定打になってしまったのだ。斎藤は涙を流し懺悔の日々を送り、心許ない人間たちからの嫌がらせや罵倒を受け、自殺寸前にまで追い込まれていた。斎藤は参列者が前を通り過ぎるたびに頭を深々と下げていた。そしてファンからの「負けるな、がんばれー!」「これからも応援します!」などの掛け声に大粒の涙をこぼしていた。
これだけは述べておきたい。三沢の死因は受け身の天才故、これまでの危険な技をすべて受け止めてきた蓄積と、ノア新団体旗揚げからの社長業の筆舌に尽くしがたい過度の疲労であり、それは晩年の三沢の顔色や弛緩した張りのない腹回りをみれば一目瞭然である。月日が経ってもいまだに斎藤の批判を語る奴は、三沢に代わってエルボーを叩き込んでやるので覚悟してほしい。
大御所のレスラーたちが見守る中、特別リングを設置しそこに次々に数えきれない花束やグッズが投げ込まれていく様がなんとも切なく、飾られた三沢の遺影が霞んで見えた。酒好きな三沢のために買った缶ビールは、たどり着くあいだにすでに冷めきっていた。ぼくは「三沢さん、許して」と精一杯握りしめリングに向かって投げ込んだ。会場は三沢の入場曲「スパルタンX」がレクイエムとして黄泉への餞として流れている。ぼくは拳を何度も突き上げ、本当に府立体育館の天井に届くと思っていた「三沢コール」をもう一度だけその場で三沢の遺影に向かって突き刺し、「ありがとー!」と一言だけ声に出して会場をあとにしたのだった。
個人的な追憶を綴ったが、ぼくにとってそんな6月13日は「無意味な日」ではなく「有意な日」として、心に刻み込まれている。